すん、と鼻を鳴らした監督生は、首を傾げながら俺を見上げた。
「珍しいですね? 薔薇の色塗りでもしてきたんですか?」
「急にどうしたんだ」
「トレイ先輩からお菓子の匂いより薔薇の匂いがするから」
その言葉にドタバタと心臓が慌てたように拍動する。背中を嫌な汗が伝っていき、呼吸が浅くなる気がした。
「今日はまだキッチンに立ってないからな」
「そっか。今日は何作るんですか?」
こちらが眩しさに目を細めるほど、瞳を輝かせる監督生。俺に向ける雰囲気も、喜色をたっぷりと含んでいて、見えるはずもない尻尾が左右に大きく振られているように見える。
自然と腕が伸びて、彼女の頭を撫でる。妹にするそれとできるだけ変わらないように気をつけてみるものの、長く触れたい欲でどうしてもゆっくりとした手つきになってしまう。気づかれたらきっとこの距離は変わってしまう。
無条件の信頼を寄せ懐いた彼女は、エース以上に機微に敏い。ゆっくりと距離を取って、この笑顔は他の人間へと向くようになる。
「監督生はなにがいいんだ?」
「シュークリーム! 自分で作ると膨らまなくて……」
表情豊かに眉尻を垂らした監督生は、視線で俺にお伺いを立てる。無言のおねだりは妹と弟を含めて寮生たちで慣れているはずだったのに、彼女がすると威力は抜群。白旗を振って微笑む。
「いいよ。放課後キッチンに集合だな」
「わーい! トレイ先輩だいすき」
弾ける声に心臓が痛む。呼吸が詰まる感覚に、気を抜けば咳き込みそうだ。
膨れ上がったものを全部飲み込んで、いつもどおり貼り付けた笑みに不自然さはないといいんだが。
「はは。調子がいいな」
予鈴にあわてて駆けていく後ろ姿を見送って、堪えていた咳を零す。
ゴホ、ゴホ、ガハッ、ゴフッ。
耳障りな音と、咽返るほどの薔薇の香り。音だけで充分に危ない咳は、誰にもバレてはいけない。その瞬間隠しているものも全部露見してしまうから。
手のひらに抱えきれなかったバラの花弁が廊下に散る。濃いオレンジが石張りの灰色を染め上げた光景を冷めた目で見下ろした。ここにどんな想いが込められていようと、肺が想いで溢れかえろうとも、喉に詰まろうとも、すべて飲みこんでみせよう。
ああ、どうしてこんな面倒な病に俺みたいな男が……