「なあ、結婚しないか?」
帰宅して早々も早々。ただいま、とおかえり、を交わすよりも先に彼はそう言った。呆気にとられて目も口も大きくあけたわたしが映り込む彼の瞳を見れば、冗談ではなく本気だということはわかった。真っ直ぐで意思の堅い視線に迷いはない。
「急にどうしたの」
「別に急でもないだろ」
交際を始めて再来月で六年。同棲をはじめてからは三年半。わたしたちがふたりで築いてきた関係性の期間のみをみれば、たしかに急な話ではない。なんなら、結婚するなら彼以外もう考えられないし、そろそろなんて思っていた。それでも、もう少しタイミングというものがあるのではないか、そう思うのはわたしだけだろうか。
少なからずとも、あのデイヴィス・クルーウェルからのプロポーズの瞬間に夢見ていたというのに。
「ただ、観た映画が……こう、」
上ずる声に、言葉を探して斜め上を彷徨う視線。よほど彼の琴線に触れるなにかがあったのだろう。
人生の転機に値する大切な言葉を口にする背を押す。そんな感情を大きく揺さぶる作品もきになるけれど、それ以上に彼がその瞬間どんな表情をしていたのか見てみたかった。
「ふふふ、いいよ。今度は一緒にその映画を観に行ってくれるなら」
シルバーの瞳が輝く。玄関の薄らぼんやりしたLEDなのに、真夏の太陽を浴びた海面のようなきらめきが、眩しくて目を細める。一層興奮した様子の彼の首に腕を伸ばせば、すぐに腰を引き寄せるようにして腕が回って抱きしめられる。
「今から行こうか?」
「馬鹿言わないで」
うっかり頷いたら彼の愛車に押し込められて本当にシアターまで連れて行かれそう。少しだけ幼さが顔をのぞかせた衝動的な言動に、ついついやわらかな声が溢れる。ふわふわと弾む声に、彼も喉の奥を転がした。
「それより、おかえりなさい」
「ただいま」