ただ、前だけを見ている人だと思う。堅実に、着実に、無理をすることはなく、確実にひたすら階段を登り続ける。振り返ることも、立ち止まることすらなく、小さくても一歩を踏みしめていく人。
高校一年にして、そんな姿勢の人は珍しく、少し浮き世離れしていた。彼の周りは同じ部活の人ですら一線引いているように見えた。
わたしだって席替えで偶々隣の席にならなかったら、彼から一歩引いて眺めるだけの人間だったと思う。
「すまない。拾ってもらえるだろうか」
短い休み時間。先の授業で出された課題を片付けてしまおうと、プリントと向き合っているときだった。隣から聞こえた落ち着いた声に、顔をあげれば牛島くんが、わたしの足元を指さしていた。
首を傾げながら指の先を辿れば、落ちていた消しゴム。なるほど、とひとり納得をして、椅子を引いてからそれを拾い上げる。
「どうぞ」
差し出せば牛島くんの手のひらが差し出される。わたしのものよりもずっと大きな手のひらに、すこし驚きながらも丁寧にその上へと消しゴムを置いた。
「ありがとう。邪魔して悪かった」
「全然!」
わかりにくいけれど、牛島くんは多分微笑んだんだと思う。いつもスンとしていて表情の変化が乏しいことが印象的だったけれど、今の彼はとてもやわらかい雰囲気をしている。口角がゆるやかな弧を描き、ほんのりと目元を細めている。
とても話しかけにくくて、隣の席になったときは憂鬱とさえ思った。けれど今は踏み込んでみたいと思えるなにかがあった。
「その消しゴム。かわいいね?」
牛島くんの手に収まった消しゴム。彼のイメージとは異なり、キャラもののカバーが巻いてあるものを使っているのが、すごく意外だった。しかもどちらかと言えば女児向けで、女子に人気なキャラクターだ。わたしの友達もそのキャラクターのぬいぐるみをスクールバッグにつけている。
「ああ。天童にもらったんだ」
「てんどう……、天童覚くん?」
隣のクラスにある意味目立つ男子がいて、その人の名前がたしか天童覚くんだったと記憶している。
天童くんは掴み所がなくて、大胆不敵で、猫のような気紛れさをもつ不思議な男子という印象。硬派で寡黙という言葉がぴったりな牛島くんと仲良しなイメージはなかった。
「ああ。なにかのオマケとか言っていた」
「同じバレー部なんだっけ?」
「そうだ」
だけど、天童くんとのやりとりを思い出して口にする牛島くんの表情はやわらかい。いい友達なんだと、口ぶりと表情だけで伝わってくる。
「仲いいんだね」
「……そうかもしれない」
もっと軽快な返事があると思ったのに、微妙な間が挟まった。逡巡したような一瞬の沈黙は、牛島くんの照れ隠しだったのだろうか。そこに含まれた意味を推測するには、わたしは牛島くんについて知らなすぎる。
「今度紹介してね」
そんなやりとりを交わしたのが、牛島くんとのファーストコンタクトだった。締めくくりの言葉も微妙な空気で終わらないための社交辞令。「行けたら行くね」と同じ感覚。
牛島くんも気にとめていないと思い、あの日を境にちょっぴり交流する時間が生まれた。関わり自体は些細なもので、取り留めのない話題ばかり。
でも、わたしが話しかければ律儀に返事をしてくれるあたりが、牛島くんの真面目で誠実な人柄が伝わってくる。
友達と移動教室からの戻っている最中、隣のクラスの前で牛島くんが立ち止まっているのが見えた。
珍しいな、と思いながらも、友達に断りを入れてまで話しかけるほどではない。放課後どこのファーストフードに寄ろうかと話しながら、その隣をとおりすぎた。
「ミョウジ」
背中越しに呼ばれた自分の名前に、ぴたりと足が止まる。牛島くんの落ち着いた声は、確実にわたしを呼び止めていた。
「先行ってるよ?」
「あ、うん」
振り返ろうとしたわたしに、友達はさらりと告げて教室へと入っていってしまった。仕方がなく、数歩戻って牛島くんの隣へと並ぶ。
「ミョウジ、天童だ」
「えっと、はじめまして?」
牛島くんの隣に並んでいた背の大きい男子。赤い髪色に、猫目に、大きな身長の天童くんは良くも悪くも目立っているから知っている。意図を汲み取りきれず、ひとまず挨拶をすることにした。
「あはは! ワカトシくん、この子困ってるじゃん」
悪びれる様子は微塵も無く、お腹を抱えて笑う天童くん。牛島くんは小鳥のように首を傾げてしまうけれど、首を傾げたい気持ちはわたしも同じだ。
「今度紹介して、と言っていただろう?」
ぐるりと記憶を辿ることもなく、即座に導き出された記憶は真新しい。間違いなく、わたしが紹介してと口にしていた。
「あー、うん。言ったね!」
「言ったんだ」
ケタケタと笑い続ける天童くんに、社交辞令のつもりだったんです、と言い訳をさせて欲しい。とはいえ、そんなことを口にするのは憚られて、言い淀む。
「まあ、よろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
満足そうに頷いた牛島くんの表情はやわらかくて、あたたかみがあった。
知ってみれば案外人間らしく、抜けた部分もある人だ。それよりもずっとずっと志の高さとそのストイックさが稀有で、なんとなく日々を過ごしている人間には眩しすぎるだけ。その光の強さから目を背けると、牛島くんの本質を見失ってしまうんだと思った。
そんなことにすら文句を言わないあたりが、牛島くんの人間性を物語っている。
図書室の自習スペースで受験勉強に励んでいたら、すっかり空は暗くなっていた。丁度バレー部の部活が終わったタイミングらしく、首にタオルをかけた牛島くんと遭遇した。
「牛島くんは凄いよね」
しみじみとそう思う。三年間同じクラスにいて彼が躓く姿を見たことがなかった。部活でも学業でも、前だけを向いて積み上げていくその姿は神々しい。羨ましくもあり、憧れでもあった。
「そうだろうか」
「悩んだりしないの? わたしなんか受験に不安しかないよ」
模試のたびに結果に一喜一憂して、プレッシャーに押し潰されそうになることが増えてきている。牛島くんはスポーツ推薦の話がいくつかの大学からきているようだけど、悩んでいる素振りをみたことがない。もうすぐ始まる大会へのプレッシャーもなさそうだし。
「いや。悩むことはあるぞ」
「そうなの?」
すんなりと頷いた牛島くんを、つい食い入るように見つめてしまう。脳天気だとも楽観主義だとも思っていないけれど、悩み立ち止まる人だとも思っていなかったから。知的好奇心が赴くまま身を乗り出した。
「ミョウジは、俺と交際してほしいと言ったら応えてくれるだろうか」
「はい?」
真摯な視線が他でもないわたしを見つめる。牛島くんはいまなんて言ったのだろう。わたしの理解が追いついていたという前提で考えると、それはわたしに言っていい悩みではないと思うのだが。
「ずっと悩んでいる」
「えーっと……」
耳の奥で心臓の鼓動が聞こえる。じりじりと熱をあげる体温。動揺が身体を駆け巡って、頭が真っ白になる。
牛島くんが恋愛に興味があるとは思っていなかった。三年弱経っても、まだ彼のことを高尚な存在だという偏見を持っていたことに気づかされる。考え方や価値観に芯があるだけで、彼だって年頃の男子だということを失念していた。
「どうだろうか」
「応えると思う。卒業後に遠距離になるのは不安だけどね」
「そうか……」
黙り込んでしまった牛島くんは、視線を落とした。口を開くのは憚られる僅かな時間。
程遠くないところで、バレー部員の声が聞こえるのに耳を澄ませた。自主練の時間だろうか。まだボールの音が止まない。
「俺と交際してもらえるだろうか?」
わたしたちの間にできていた静寂を破るのはもちろん牛島くん。いつもより熱を含んだ眼差しが、真っ直ぐにわたしの心を捉える。
「わたしで良ければ。ぜひ」
そうして始まったわたしたちの関係すらも、牛島くんは丁寧に向き合ってくれる。
「そういえば、来週の帰国は夕方にした。会えるか?」
通話越しの声に意識を引き戻される。大学時代に比べてさらに遠距離になっても、変わらない絆が続いていた。不安がないわけではないけれど、若利くんは向き合う努力をしてくれるから、乗り越えてこられた。
フラワーベースに飾られた紫のバラを眺めたあと、彼の姿を瞼の裏側に描く。
「話があるんだ」
「うん。待ってるね」
唐突な切り出しでも不安にならない。それは若利くんがコツコツと積み上げてくれた信頼のおかげだ。早く彼に会いたい。