朝目覚めたときも、朝練がはじまったときも、いつもどおり。それなのに、朝練が終わった頃にはじわじわと迫り上がってくる感覚。着替えている間にあっという間に膨れ上がって、気持ちが落ち着かない。
それは俺だけではなく、部員の半数が同じように浮足立っていた。
「お先ぃ~」
いつもであれば若利相手にべらべらと喋り倒している天童ですら、軽い足取りで部室を出ていった。
「一年、鍵閉め忘れんなよー」
かくいう俺も、気持ちとは裏腹にテキパキと着替えを済ませて、校舎へと向かう。
部室を一歩出て、登校してきた面々に紛れれば浮足立った空気はより濃くなる。心做しかあまい匂いが漂っている気さえする。
「はよー」
「おー」
昇降口でクラスメイトと挨拶を交わしながら、靴箱を開ける瞬間すこし緊張する。あったらあったで困るくせに、なかったらなかったで少しガッカリするのが目に見えているのに。それでもやっぱり一抹の希望を抱いてしまうのは、この日の男の性かもしれない。
「瀬見も空っぽじゃん」
後ろから覗き込んできたクラスメイトに肘鉄をいれるけれど、本気でないそれはあっさりと躱される。
「俺はいいんだよ。彼女から貰うから」
「くれるって?」
「うっさい」
ニヤケ面で意味深に笑うクラスメイトに今度こそ、パンチを食らわせた。
付き合いはじめて、最初のバレンタイン。なんなら最初のイベント。いわゆる付き合ったばかりの彼女にあからさまなお強請りをするのはカッコ悪い気がして、なんのアピールもできていない。
そうは言ってもクッキング部に所属している彼女であれば、と自然と期待が募る。
クラスメイトのせいで、心のソワソワが急上昇する。試合でも、試験の前でも感じたことのない落ち着かなさ。
その素振りを出すのもダサく感じて、できるだけ平静を取り繕ってみる。でもやっぱり、気づけば教室に向かう足取りは早くなってしまっていた。
「あ、えーた。おはよう」
教室に入って早々にかけられた声に、心が踊る。勘違いでなければ、彼女の声も弾んでいる。
でも笑顔を返すより先に、眉間のシワが寄るのは彼女の友人に紛れて、先に部室を出ていった天童がいたから。しかも、彼女の机の上においてあるタッパーから、チョコレート菓子らしきものを口に運んでいる。
心のなかで、〝平静〟と〝平常心〟を唱えて彼女に近づく。
「はい、チョコレート」
シンプルな包装紙に、ツヤのあるリボンが華やかに巻かれたそれ。
ぶわっと、湧き上がる喜びに身体が震えそうになるし、全身の体温が突沸して爆発しそうになる。
「サンキュー!」
だらしなくゆるみそうになる口元をむにむにと動かして、どうにか堪える。
内心では、カーニバルが開催されているレベルで浮かれている。嬉しくって、受け取った箱を眺めていてふと、気付く。
「……市販?」
「そうだけど」
商品表示ラベルに気づいて、ぴたりと動きが止まる。
市販品が悪いわけじゃない。嬉しいことには嬉しい。ただ、
「天童は手作り食べてるのに?」
やっぱり、それが一番気になる。眼の前の光景がなければ有頂天のまま、箱を抱きかかえていたと思う。
彼氏の俺が、市販のチョコレート。それなのに、彼女と去年クラスメイトだっただけの天童が、愛情入りのチョコレート菓子。その差を素直に飲み込めるような器は持ち合わせていなかった。カッコ悪いけど。
「さとりんは、あげたっていうかたかられたっていうか」
「……ふうん」
困ったように眉尻を歪めて笑う彼女をさらに困らせるとわかっているのに、拗ねた声が出てしまう。実際拗ねているわけだから、しょうがないといえばしょうがない。
「手作り平気なタイプだった?」
「まあ」
誰が作ったものでも大丈夫というわけではない。でも、彼女が作ったとなれば、平気どころか喜んで食べたいわけで。
「じゃあ、えーたも食べてよ。割と自信作なんだよね」
タッパーを手に取った彼女は、満面の笑みでそれを差し出してくれた。
茶色、白、緑のトリュフ、ナッツ入りのブラウニー、デコレーションが施されたカップケーキ。どれも美味しそうなチョコレート菓子に目が輝く。
「おいしいよ~」
「お前は少しくらい遠慮しろ!」
いつも以上に上機嫌に弾む天童の声に、思わず強く睨みつけてしまう。
甘いものが好きだとは知っていたけれど、バレンタインという恋人たちのイベントにおいては、少しくらい遠慮すべきだろう。
「来年は期待しててね?」
「おう。すっげー楽しみにしとくな」
来年に向けた期待はあまったるく口の中でとろけていく。ひっそりと机の下で絡んだ指先で、未来の約束を結んだ。