朝練のない生徒の中でもとくにゆっくりとした登校時間。ちょうど朝練をこなした生徒がまばらに教室へと移動するような時間が、わたしにはお決まりの登校時間だ。だから、昇降口で朝練を終えた面々と遭遇するのはよくある話。今日は天童が下駄箱で靴をしまっているところだった。
「おはよ~」
「おはよう。毎日朝練ごくろうさま」
「もう慣れっこだけどねえ」
間延びした口調の天童に並んで靴を履き替えて、教室へと向かう階段を登る。その間も天童がぺらぺらとよく喋るのに耳を傾けながら、一限目がなんの授業だったか記憶を巡らせていた。
「なあ、これ聞いて」
「おはよ」
しれっと隣に並んで、イヤホンの片側を差し出してきた瀬見。反対側は瀬見の耳に繋がっているから、身長差を縮めようと身をかがめるその努力に免じて大人しくイヤホンを受け取った。鼓膜をゆらすアップテンポのポップス。ちょっぴりロックっぽい雰囲気があるのが、胸をくすぐる。
「え、いい感じ」
「だろ?」
にっかりと白い歯を見せて笑った瀬見にひっついて、手元の音楽プレイヤーを覗き込む。瀬見という男は優しいので、わたしが見やすいようにプレイヤーの画面をこちらに傾けてくれる。
「ほんと、意味わかんない」
死んだ魚みたいな目をして、唇を尖らせた天童は、深々とため息を吐き出した。
「なにが?」
「そういうとこ含めて、ぜーんぶだよ!」
ぷりぷりとわざとらしく機嫌を損ねた天童は、わたしたちを置いて駆け出す。少し前を歩いていた牛島に絡みに行くのを瀬見とふたり見送ったのだ。
●
「そこさあ、」
机に広げたテキスト。次の授業に向けて、指される辺りの予習に励んでいたら、ぬう、と背後から伸びてきた腕。
突然のことに肩が跳ねるけれど、続いた声にすぐ力が抜ける。
「なんでそうなんの?」
背もたれに反対側の腕がかけられた振動が伝わる。ぴったりと背中に張り付いた瀬見は、後方頭上からわたしのテキストを覗き込む。身体を屈めているらしく、声が思っていたよりも近くから聞こえる。
「えー、この公式使ってさ、こっちを代入して、」
「あーね、理解したわ」
テキストの端っこにもう一度同じ数式を記入していけば、瀬見の声が弾む。
「サンキュー、俺も当たるから助かった」
「ジュースおごり?」
頭を上げて逆さに瀬見の顔を見上げる。キュッと形のいい眉が寄って、目尻が垂れた。
「高ぇ対価だな」
ぺちり、と小さな音を立てておでこを指先で叩かれる。全然痛くなんてないけど、不貞腐れてみれば、今度は目を細めてはにかんだ。
いいよ、とは言わないけれどこれは買ってくれるやつ。この授業が終わったあとの昼休み、ふたりで購買に向かおう。
●
購買でパンを買って、瀬見にジュースを奢ってもらう。その足で今度は食堂へ。
「お疲れ様です」
「おつかれ」
先に席へ座っていたのは瀬見の後輩。どちらも二年生で、試合に出ているから名字だけはわたしでも知っている。
瀬見は、彼らふたりが座る長机の向かいに空いている席を指さした。
「なあ、そこ座っていいか?」
「どーぞ」
先輩との相席なんて気まずくないのだろうか。
わたしの懸念なんて気づいていない瀬見は、買ったばかりのジュースのパックをその席に置いてしまう。
「待ってて」
そのうえで、わたしを置き去りにして券売機へ進んでいってしまうから、仕方なく見送ってから空いてる席の片方へと腰を落ち着けた。
「いってら~」
惣菜パンがひとつと、菓子パンがひとつと、奢りのジュースのパック。ビニールからストローを抜き取って、パックへと突き刺す。それから、心のなかで瀬見にお礼を言ってストローに口をつける。
「仲いいですよね」
後輩の片方。たしか川西くんが、興味があるのかないのかわからない目でわたしを見てそう言った。
好奇心、というよりは、この沈黙を繋ぐための投げかけに近い気がする。
「そうだね」
だからといって、それ以上話を広げるだけのトークスキルなんて無い。ありきたりな同意の言葉を口にし、トレーを持って戻って来る瀬見へと視線を向けた。
視線が合えば、目だけで「ただいま」と笑うから、同じように微笑みを返しておく。言葉にしなくても伝わるのは楽でいい。
わたしの隣に座った瀬見の今日のお昼は唐揚げ定食だった。カリカリの揚げたての唐揚げと瀬見の顔を交互に見つめる。
「唐揚げいいなー!」
「一個だけだからな」
肩をすくめてため息を零した瀬見は、いつだってわたしに甘い。
積み重なった唐揚げの中から比較的小ぶりのひとつをお箸で摘み上げる。ゆっくりとわたしの口元に運ばれる熱々のおいしさの塊。
「ほら」
「いただきまーす」
喜んで口に収めたわたしと、それを眺める瀬見。
にこにこと咀嚼をするわたしを見飽きれば、両手を合わせたあと、自分も唐揚げに齧りついていた。
「……ふたりって付き合ってないんですよね」
「そうだけど?」
だって付き合ったらこの絶妙な距離感ではいられなくなる。付かず離れず、束縛されもしないけれど、独占もできない。あまったるすぎず、気恥ずかしさがない。でも、なんとなく隣りにいる。そんな絶妙な距離。
多分、瀬見だっておんなじふうに思っている。
「まだな」
「え?」
そう思っていたはずなのに……。にんまりと目を細めた瀬見は、捕食者の顔をしていた。