BridgeOfStardust

さよなら。行ってきます/復縁シリーズ4

 ガランとした部屋を見渡す。二年半という長いようで短い時間を過ごした思い出がぎゅっと詰まった場所。ホームシックに陥ってベッドの上で膝を抱えて丸くなって毛布を頭から被って泣いた日も、カルチャーの壁に阻まれて窓辺で怯えた日も、こっちで初めてできた友人を招いて女子会をした日も、日本から届くメールにソファーの上で頬をゆるませた日も、いっぱいいっぱい詰まっている。
 備え付けの家具を残して、すべて運び出された後の部屋は無数の思い出が詰まっているとは思えないほど殺風景だ。
 スーツケースと思い出を抱えて、ようやくやってきたタクシーに乗り込んだ。
 車窓を流れる景色を目に焼き付けながら振り返った二年半は、たくさんの経験と知識と人脈をわたしに与えてくれたけれど、ついに恋人に関してはできないまま。デートをしてみてもチラつく影に一歩踏み込むことができなかった。

「ナマエ、こっち」

 降り立った空港は湿度がじんわりと肌を撫でる。機内の乾燥が強かっただけに、母国の湿度の高さをいっそう強く感じた。
 離れたところで手を挙げる懐かしい顔に、スーツケースを転がしていく。メールでのやりとりはぽつぽつと続けていたけれど、顔を見るのは別れた日以来だった。
 白かった肌は日焼けして、顎のラインは少しシャープになって、髪は少し短く、一回り体格が大きくなったように感じる。大人の男になった信介の姿に、胸中がざわめいて騒がしい。

「信介くん。わざわざありがとーな」
「ええよ。荷物、そんだけか?」
「うん」

 目を細めて笑う表情は変わらない。思考が読めない表情をしていることが多いけれど、付き合ってみてわかったのは案外目で物を言うことだ。口ほどに物を言うと言うけれど、信介くんの場合は特にそう感じていた。
 やわらかい冬のおひさまみたいな眼差しがわたしを包む。帰ってきたのだという実感が湧いてくる。

「貸し」
「え、ええよ。重いもん」
「尚更やろ。疲れてるんやし貸し」

 伸びてきた大きな手がわたしのスーツケースを奪う。少し皮膚が固くなっただろうか、指先がカサついているような気もする。否応でもふたりの間に空白の時間があることを突きつけられる。 
 切なく思うと同時にわたしばっかり信介くんのことを引きずっていて悔しくもある。
 別れを切り出したのはわたしのほうなのに。あっさりと了承して、付き合っていた事自体がなかったみたいに友人関係を続けてくれる信介くんに何度頬を濡らしたかわからない。
 だけど、二年半の遠距離恋愛に耐えられる自身がなかった。不安に押しつぶされたり、正しくないことをして罪悪感を秘める展開になったり、傍にいてくれない信介くんのことを悪くいいたくなかった。海を超えて大陸を挟んだ向こうの国と日本では、時間的な弊害も物理的な距離もある。留学先のアパートメントで何度も泣いたけれど、実際別れておいてよかったとも思ったから。じゃなければ、生活も恋も破綻していた。

「ありがと」
「おん。じゃあ行こか」

 少し前を歩く逞しい背中を見つめながら、信介くんの車へと向かう。周りの喧騒から切り離されたみたいに洗練された空気を纏う信介くんは、時折わたしを振り返っては目尻を細める。そのやさしい感覚にこそばゆさが肌を撫でる。

「改めておかえり」
「ただいま」

 お互い車に乗り込んだあと、わたしを見つめる信介くんの目はさらにやさしくなる。
 付き合ってたときと変わらない眼差しに、心臓が苦しくて、呼吸がしびれる。ゆっくりと伸びた手がわたしの手の甲に触れて、指先が骨をなぞる。ぞわぞわと背中が震えて、堪えきれなかった吐息が押し出された。

「ほんで、俺んとこにも帰ってきてくれるん?」

 こてんと首を傾げた。前髪が揺れて流れていく。

「ずっとナマエのことしか考えてへん。他に好きな男がおらんなら戻ってきてくれへん?」

 目頭が熱を持ってじわじわと視界が滲む。熱っぽい視線がわたしにまとわりついて離してくれない。呼吸を絡め取ってつまらせる。ふっと力を抜いて笑った信介くんは、きっとわたしの考えていることなんてお見通しなんだ。好きで好きでしょうがなくて、未練たらたらだってわかっていて、それでも言葉を求めているんだ。

「そんなんずるない?」
「ずるないよ。俺が好きで待っとたんやもん」

 一方的に振って、帰ってきたから寄りを戻しましょうなんてそんな虫のいい話が許されるのだろうか。そうなったら嬉しいなとは思っていたけれど、待っていてとは言わずに日本を離れたのに。当然のように愛を育みながら待っていてくれたこの人の懐の広さにちょっぴり怖くなる。
 どおりで、送られてくるメールの温度が変わらないわけだ。明確な愛を込められていることはなかったけど、淡い期待を抱いて胸をときめかせる言葉が綴られたメールは、国と時差を超えて週に一度送られてきていた。

「わたしも信介しかおらんなって思っとったよ」

 忘れたくても忘れられない。こんなに恋い焦がれて胸をときめかせてくれる人なんて、他に現れなかった。

「そうか」

 溶けた瞳は満足げだ。手の甲に触れていた指先は浮上して、今度は頬を撫でる。それにすり寄って信介くんの手のひらの温度とか、やさしさを堪能する。
 やっぱり好きなんだ。どうやったってこの人に叶う人はいない。 

「もう離してやらんからな」

 唇を重ね合わせるだけのキスでも、脳が弾けそうなほど歓喜が満たす。離れるのが名残惜しくて、鼻先をすり寄らせれば、空気が笑う。そしてもう一度唇が重なった。



キュメンズ内、懐がでっけー男グランプリの常連北信介~~~~!!ここは沼地…