目の前に立ち憚る大きな男と目線を合わせないように、手元のアイスコーヒーの水面を眺める。
すとんと背の高いグラスの表面はしっとりと結露が覆っている。溶け出した氷とコーヒーが分離して蜃気楼のような靄が漂っていた。
現実から逃げ出した思考は、視界に入れているものをじっくり観察することでどうにか物理的にも逃げ出すことを回避していた。どうせ逃げ出したところで目の前の男にすぐに捕まってしまうのは目に見えている。
「元気そうで良かった」
ちらりと表情を盗み見るれば、目尻を溶かした倫太郎はゆったりとした動きで頬杖をついた。
記憶の彼よりも髪が短くなって、身体の厚みが増した。少しだけ目尻にシワができただろうか。元々艶っぽい表情を見せる人だったけれど、三十路に踏み込んだ倫太郎は雰囲気から艷やかで目の毒だ。
「どうしてこっちにおるん?」
「遠征。それとあんたに会えるかなって」
弾んだ声はすごく楽しそうで、気まずさを感じているのはわたしだけ。
別れて十年近く経っているのに、倫太郎だけはまるであの日のままのよう。プロの道に進んで、あの日々以上にモテている倫太郎だったけれど、わたしの知る限り一度も浮いた話を聞いていない。あの頃と変わらず一途に直向きに誰かを愛しているのだろうか。
どれだけ持て囃されても、どれだけ告白されても、微塵も他所見をすることなく、盲目的に愛を注いでくれる。世界を知らなかったからできたこのなのか、今も変わらないのか。ちょっと興味はある。
高校生で付き合って、そのままゴールインする勢いだった。わたしはその圧倒的な愛を受け止めきれなかった。漫画やドラマのようないろんな恋をしてみたかった。後にも先にも知っている男の人が倫太郎だけなのは、なんだかもったいないような気がしてしまった。結果、彼の愛情から逃げるようにして別れたけれど、やっぱりフィクションは作り物なんだと思い知っただけだったけれど。
「あのね、俺はずっと会いたかったよ」
うっとりと眦をゆるめた倫太郎の瞳に宿るのは絡みつくほどのあまさ。
「俺以上の男はいた?」
「……最初の彼氏が倫太郎は後の恋愛ハードモードやってん……」
「だろうね」
クスクスと喉の奥を転がして笑われているのが居心地が悪い。こそばゆさがあっちこっちを這い回ってしまう。
「俺の彼女に戻る気になった?」
「彼女おらんの」
「ひとりもいなかったよ。あんた以外いらないもん」
伸びてきた先の丸い指先。指の背でゆっくりと撫でられた頬が、熱を孕む。心臓を直接掴まれたみたいな息苦しさに溺れる。
「そんなんずるい」
たっぷりとそして広々とした愛情の海。どこまで沈んだのか、どこまで押し流されたのかもわからないまま漂う。
少し怖い。でもそこを知ってしまったわたしは普通の愛では息苦しく、物足りないと感じてしまう。とことんとずるい男だ。わかっていて一度手放すなんて。
「彼女じゃなくてお嫁さんでもいいよ」
「いやや」
わたしの否定の言葉にすら揺るがない。にこにこと笑みを深めた倫太郎。この男に敵いっこないなら、せめて最大級のわがままをぶつけてやろう。
「プロポーズ夢見てん」
「とびっきりのサプライズしてあげる」
うっそりと涙袋を持ち上げる倫太郎には何のダメージも与えられなかった。むしろ喜ばせただけかもしれない。
けれどまあ、こんなわたしでもずっとずっと愛し続けてくれるというのなら悪くもない。
「おかえり」