囁き声と、カチャカチャと筆をバケツで洗う音だけが響く授業中の美術室。各々で眼の前の課題に取り組む落ち着いた時間。目の前のキャンバスに向けていた視線をなんとなく、ぼんやりと反らした。グラウンドから聞こえるホイッスルの声とざわめきに釣られたのかもしれない。
植え込みの隙間から見えるグラウンドでは男子と女子で分かれて、五十メートル走の測定をしているらしい。グラウンドの端で、ホイッスルを合図にクラウチングスタートで走り始めた女子ふたり。ぐんぐんと速度を上げる右側の走者は、素人目でもキレイなフォームでくるくると脚を動かしてこちらへと走ってきた。風に乗って、加速する姿がどんどん近づいてきたことで、ハッとする。
「まじか……」
ゴールしてから失速したその子は、乱れた呼吸を整えながらゆるやかな足取りで歩く。
その姿に俺の視線は釘付けになる。
去年、岩ちゃんと同じクラスだったという女の子。俺の視線と言葉を奪ってしまう子。
すぐさま俺にとって特別になった子。
恋に落ちたまではいい。健全な男子高校生なんだから、いくらバレーボールに夢中で、全力を注いでいたとしても、恋のひとつやふたつの経験くらいあり得る。モテる自覚もあるけど、彼女を作る気にならなかったのは、バレーボールで手一杯だからというのもあるけれど、心が動かなかったから。そんな心が転げ落ちていったかと思えば、俺としたことが彼女を前にすると言葉に詰まるなんて、情けない。
それなのに、無意識に視線が彼女を探してしまうし、気づけば彼女を視界に捉えている。今だってそう。
しかも不思議と、そういったときは彼女と視線が交わる。磁石のS極とN極みたいに引き寄せられて、絡み合ったと思えば身体が発熱してしまう。
そして今回も例に溺れず。バチッと、火花が散るような衝撃で視線が絡まる。彼女は驚いたように目を丸めて、はくり、と一度唇を動かした。そこに音が伴っていたかまではわからないけれど、間違いなく俺を認識している。
「うわ……どうしよう……」
慌てて視線を反らしたけれど、意識してキャンバスを睨みつけていないとまた彼女に視線が吸い寄せられてしまいそうだ。絵筆は握ったままで、色味が増えていかないキャンバスをひたすらに睨みつけることで、どうにか気持ちを引き戻す。
「及川くん、顔真っ赤だけど、大丈夫?」
「え!あー、えっとなんか今日暑くない?」
水道へと歩いてきたクラスメイトが怪訝そうな顔で俺を見ていた。手にしている黄色いバケツには濁った水が溜まっていて、水面がゆれている。俺の動揺が映し出されているみたいで、どうにも気まずい。
「むしろ肌寒いけど……。保健室行ったら?」
よく回るはずの口は空回りして、無理やり捻り出した言い訳は我ながら下手くそで、クラスメイトの表情を一層険しくしただけだった。
「そう?大丈夫大丈夫。心配かけちゃってごめんね」
「無理しちゃだめだよ」
「うん、ありがと」
そのまま興味をなくして、水道へと向かったクラスメイトの背中を見送れば、また自然と視線はグラウンドへ向いてしまう。彼女はクラスの女子と話をしていて、何かを必死に訴えかけているように見える。その顔が、どことなく赤く染まっている気がしてしまえば、視線どころか思考まで彼女にとらわれた。
あの子の表情を色付かされているのは一体なんだろう。もう一度俺の方を見てくれないか。廊下ですれ違ったらフォームが綺麗だったことを伝えてみようか。運動が好きなんだろうか。ぐるぐると混ざりあっていく想いは、すっかり彼女色に染まっていた。
けれどキャンバスはまだ半分以上白いまま。
もう課題なんて手につかなそうだ。いっそのこと、彼女を描けたら筆はするすると進んでいくんだけど、と困り果てるのだった。