ざわめきが満たしている場内。シューズがコートと擦れる音と、ボールを弾く音が特に響くそこで、わたしは敗北を噛み締めた。
コートの中にいたわけでもないし、対戦をしていたわけでもない。ただ応援席で、好きな男の子を応援していた。けれど、わたしの幼い恋心は見るも無惨に完敗したのだ。
「黒尾と喧嘩でもしたのか?」
「え~、そんなことないよ?」
二年B組の教室はいつもどおりに騒々しい。購買から帰ってきたばかりのわたしを捕まえたのは、ヤク。早々にお弁当を食べ終えたらしい彼は、しらを切るわたしをじっと見つめる。猫のようなくりくりとした目は、標的という名のわたしをしっかりと捉えている。
「じゃあなんでだよ」
「だから何が?」
買ってきたばかりのチョココロネにかじりつく。もったりとしたチョコクリームが口の中にあまったるさを齎すけれど、今の苦い気持ちを相殺はしてくれない。
「黒尾と目も合わせねえだろ」
「ヤクの気の所為だって」
「散々ひっついててその言い訳は無理だろ」
黒尾鉄朗。気さくで人の懐に入り込むのがうまいのに、絶対に距離を見誤ることなく付かず離れずをするのがうまい食えない男。高校一年で同じクラスになって、気づけばしょっちゅう一緒にいた。空気の刃長があうというか、距離感がちょうどいいというか。とにかく、黒尾の隣は心地がよかった。多分、そう思っていたのはわたしだけではなかったと思う。自意識過剰とかではなく、そう言い切れるだけ自然とわたしたちは傍にいた。
初めて黒尾に誘われて練習試合を観に行った、一年の秋。真剣で獰猛な視線でボールを追い、翼でも生えているかのように何度も跳び、そして一点に吠える姿をみて、仲が良いクラスメイトから好きな男の子へと変わった。勝利には、比較的かっこいい部類に入る顔をくしゃくしゃに歪めてはしゃぐ姿がかわいくもあり、格好良くもあり、眩しかった。
二年生になってクラスが離れてしまっても、わたしたちの距離は変わらない。何度か付き合っているのかと尋ねられたこともあるくらい、隣りにいるのは互いだったけれど、そのときはまだ黒尾の本心が読み切れなくて、今の関係性を失うのが怖くて、一歩が踏み出せず仲の良い友人のポストに甘んじていた頃は、もどかしくはあったし、片想いが苦しくて枕を濡らす夜もあったけれど、毎日が輝いて見えて些細なことで喜びに震える日々。
でも、最近ようやく黒尾の気持ちが見えてきて、「これは特別扱いだな」って気づいてしまう場面が増えた。それなら告白をしようかなって、どうせなら黒尾から言って欲しいけど、案外臆病なところがある男だから、してくれないかもしれない。今度の大会が終わったら、告白しようと思案していた。どんなシチュエーションがいいかとか、どんな言葉で伝えようとか。浮足立っていた。
そして都大会。黒尾が主将になってはじめて音駒を率いた大会で、敗れた。春高という夢の舞台に手が届くことはなかった。その様子を応援席から、必死になって応援した声は届いていたかはわからない。
俯いて涙を流していた黒尾が、不意に天井へと顔を向けた。その横顔に伝った涙の跡が儚くて、美しくて、視線が釘付けになる。ぐっと喉を鳴らして、乱雑に腕で涙を拭った黒尾は、敗北に震える選手たちに声をかけていく。その姿が主将と呼ぶにふさわしい頼もしさがあり、けれど貼り付けた笑みに隠しきれていない強い感情。無念・遺憾・不甲斐なさなんかをグツグツと煮詰めたものが滲む、バレーボールという競技に向ける黒尾の強い想いを前にして、わたし稚拙な恋心は負けた。天秤にかけることが間違いだとわかってる。でも、それくらい黒尾の〝音駒高校バレーボール部主将〟という姿が網膜に焼き付いてしまった。
「えー。ヤクのえっち」
「はあ??」
「乙女の本音を覗こうとしちゃだめだよ」
失恋とは少し違う。だけど、黒尾がバレーをしている間は隣に並べないと思った。ワガママを言わず、不安にならず、負担にならず、黒尾のカノジョになれるイメージが湧かなかったから、この関係を壊すわけにいかなかった。今は少し近すぎる。うっかり気持ちを伝えかねない距離にいる。すこし、ほんのすこし離れて、友人として適切な距離に補正しなおしたいだけ。喧嘩とかではない。
*
あの日と同じように、激闘の末の敗北。手に汗握った試合内容に、わたしは呼吸を奪われた。そしてまた、黒尾は主将として頼もしい姿をわたしの目に焼き付ける。
「黒尾。一年半、主将おつかれさま」
まだ残っている他校の試合を観戦していた大きな背中に声をかければ、随分とスッキリとした面持ちの黒尾が振り返る。目尻を細めて笑う姿は、憑き物が取れたような気がするのは、気の所為だろうか。
「応援ありがとな」
「したくてしてたから」
恋敵、とも言えるバレーだけど、不思議と嫌いにはなれなかった。だって、バレーをしている黒尾が一番かっこいいから、もう仕方がない。一番活き活きとして輝いている好きな人の姿を目に焼き付けたいと思うのは、恋する乙女の性分とも言える。
「それってさ、期待してもいいですかネ」
ボールじゃなくてわたしを真摯に見つめる瞳。そこにこの一年ずっと見え隠れしていた、熱がどろりと溶け出ていた。正面から一身に浴びるには、覚悟が足りない。一度諦めた気持ちを必死にかき集めるところからスタートだから。
「どうでしょうね」
「俺さ、距離置かれて寂しかったんだけど」
はぐらかそうとしているのはバレバレらしく、すかさず斬り込んでくる黒尾はやっぱり食えない男だ。それでも、わかりやすく拗ねて見せる大男がかわいいと思ってしまうのは、間違いなく惚れた弱み。
「でもバレーには集中できたでしょ?」
「まあ、一応?」
ゆっくりと伸びてきた腕。逃げる理由もないからされるがままに、アウターの袖を掴まれる。百九十センチ近い男が上目遣いをしてもかわいくなんかないはずなのに、馬鹿な心臓は跳ね回って喜んでしまう。
「じゃあさ、部活も引退だし、元通りだよな?」
「元通りでいいの?」
問いかけに対して問いかけを返す。ぎゅっと困惑に眉を寄せたと思えば、すぐ頼りな下げに眉尻が垂れる。さっきまではあんなに格好良くて、頼もしい主将の顔をしていたのに。もうすっかり等身大の黒尾に戻っている。
「……ヤダ。それ以上がいい」
「うん。わたしも」
「好き、付き合ってクダサイ」
瞳の熱が声に溶け出ている。どろりと鼓膜を揺らす音の熱量に、体温が上昇する。待ち望んだ瞬間に、視界が潤む。
「わたしもずっと好き」
そうして抱きついた身体はブレることなく、わたしの愛を抱えてくれた。